本日は猿橋勝子さんの生誕98周年です。
Googleロゴも猿橋勝子さんのデザインに変わっていますね。
彼女は『女性科学者』のパイオニアなのです。
目次
猿橋勝子さんは何をした人?
本名 | 猿橋勝子(さるはし かつこ) |
生年月日 | 1920年3月22日 |
没 | 2007年9月29日 |
職業 | 地球科学者/地球科学/海洋放射能 |
出身地 | 東京都 |
出身校 | 帝国女子理学専門学校(現東邦大学理学部) |
彼女は、放射能汚染の調査研究を行い評価された方です。
他にも彼女は1950年頃から水中に溶解した炭酸物質の研究を始めます。その後『微量拡散分析装置』や『サルハシの表』を開発、作り世界的に高く評価を受けます。
この炭素の研究というのは、現在温暖化で問題になっている地球上の炭素サイクルの重要な部分を占めるものになります。
ただ、猿橋勝子という名前は、当時の米ソが実験を繰り返していた核実験の危険性・脅威を訴え続けてきた方という印象が世間からは強いでしょう。
当時はまだ女性が理系の学問を研究・追及する道など開かれていない時代でした。しかし、彼女は研究を通して世界的な業績をあげる事になります。
猿橋勝子さんの生い立ち
猿橋勝子さんは、1920年に東京で生まれますが、電気技師の父と、母、兄の4人家族でした。
小さい頃は泣き虫で甘えん坊だったそうです。さらには、人の前で話すのが怖くて恥ずかしいという彼女でした。その為、いつもみんなの後ろに隠れている程でした。
成人してからの猿橋さんと比べるとその違いにびっくりされるほどです。そんな彼女が変わり始めたのは高等女学校に入ってからでした。彼女は、運動神経は抜群でスポーツで好成績を上げる程に活発な女性になっていました。
そんな彼女の夢は医者になることでした。
ただ当時は女性には厳しい環境でした。高等学校からその上の学校に行く人の数は当時高等学校の女性の中でも1%未満と言われていました。それでも猿橋さんは上の学校に進学をしたかったのです。両親に頭を下げてお願いをするわけです。
しかし、両親からすると当時の考えから女性は嫁にいくのが一番の幸せと思っていたので反対をしていました。
親の同意が得られず進学を断念せざるをえませんでしたので、その後は生命保険会社に入ることになります。
帝国女子理学専門学校に入学するきっかけ
しかし、どうしても猿橋さんは医者になる夢をあきらめきれなかったのです。
猿橋さんは東京女子医学専門学校に親を説得して受験することになります。
東京女子医学専門学校は難関校ですが無事彼女は、一次試験を通過しました。その後は校長による面接がありました。校長は吉岡弥生さんでしたが、その面接で予想外のことが起きたのです。
『あなたはどうしてこの学校受験したのですか?』と聞かれ彼女は『一生懸命勉強し先生のようになりたい』と伝えました。
そうすると返ってきた言葉が…
『とんでもない。(私のような人には)そう成れるものではありませんよ』という言葉でした。
この言葉に猿橋さんは大きく失望をしこの学校には入学をしないと!と決意したのでした。
面接が終わり学校を出た時の出来事でした。
その日は雨でしたが、その時に学校の前で配られていたビラを受け取ったのです。そのビラの内容は、現在の東邦大学にあたる帝国女子理学専門学校の案内でした。
『私はこの学校に行く!』とすぐに心に決めました。まだできたばかりの学校に行くと決めた猿橋さんですがいかにも勝気な性格の猿橋さんらしい行動でした。
入学後、当時の帝国女子理学専門学校には研究設備などは整っておらず、外部に実習に行っていたが、その中でも中央気象台研究室を実習で選んだ際に、三宅泰雄という近い未来の恩師になる指導者に出会う事になります。
彼女はとにかく努力家でした。初めての就職先で三宅泰雄という恩師に恵まれますが何よりも彼女は努力家であったのです。
彼女は『自分は数字が弱い』と思えば夜間に予備校に通い、『化学が弱い』と思えば本を借りて読破する程だったそうです。当時は『女に学問は要らない、早く嫁に行け』と謳われていた時代です。そんな厳しい時代に彼女は生涯独身で研究に没頭したわけです。
学校を卒業後、彼女は中央気象台に就職するという事を決意します。
しかし、当時は戦争が泥沼化されており、学生は次々と陸軍や海軍の研究所に就職するのに猿橋さんは、中央気象台に就職するという事で非難をされていました。
学校の先生からは『この非常事態に関係のない中央気象台に就職するという被告民がいる。実に嘆かわしい!』
最前列でこの言葉を聞く猿橋さんは決してうつむきませんでした。むしろまっすぐに前を見据えていました。
『軍国主義の色に塗られた教育が長く続くはずがない!』と猿橋さんは信じていたのです。
やがて戦争は日本の敗北で終りました。それから東京都杉並区で作られた新しい研究所で猿橋さんは新しいスタートを踏み出しました。
それは27歳の時でした。
猿橋勝子さんが評価された研究内容とは?
まずビキニ事件をご存知の方は多いでしょう。
ビキニ事件とは、1954年にアメリカ軍のビキニ環礁での水爆実験により『第五福竜丸』が多量の放射性降下物、いわゆる『死の灰』を浴びた事件です。
それ以降、彼女は大気や放射能汚染の調査研究を行い多大な評価をされました。
このビキニ事件後、彼女はアメリカの水爆実験による大気汚染について研究を開始します。
研究の最中、彼女は日本近海にてウランの核分裂で発生するセシウム137の濃度を発見しました。その濃度がアメリカで発見されていたセシウム137に比べて異常値と言えるほどに濃度が高いものでした。
当時一緒に研究をしていた猿橋さんと恩師の三宅泰雄さんはそれがアメリカからの海流によるものだと解析をしましたが、アメリカ側は、海水で汚染物質は希釈されるのでそれはないとの意見でした。
なので、当時は猿橋さんらの調査にかなり批判が起こっていたわけです。
しかし、猿橋さんはそれでは納得ができなかった為、アメリカ側の測定と彼女達の測定の精度、どちらの方が正確性が高いか競う事になります。
それは1962年の事です。彼女は単身で渡米する事になります。その頃の時代は渡米さえも珍しい時代でした。
それだけ『アメリカ側が思っている以上に水爆実験での海水の放射能汚染はひどくなっている』という事を主張したかったのです。
測定の対決方法はセシウム134を50リットルの水に溶かし4つの容器に分けて、それぞれアメリカ側、日本側に2つずつ与えます。
そして、それぞれの海水を濃縮してセシウム134が何%回収できるかを競う形で行われました。
結果、彼女達の測定結果は精度がアメリカ側よりも高かったわけです。圧勝だったわけです。作業の迅速に加えて、日本の方が正確な数値を出していたわけです。
アメリカ、カリフォルニア大学サンディエゴ校スクリップス海洋研究所のフォルサム博士は猿橋さんを高く評価する事になります。
それをきっかけに彼女は科学者として海洋の放射能汚染の実態に関して世界に主張をする活動を行います。
猿橋勝子さんの経歴・活動内容とは?
・炭酸分析研究において東京大学から化学分野で女性初の博士号取得。
・『女性科学者に明るい未来をの会』を創立。1990年に『猿橋賞』を設立。(猿橋賞から女性物理学会会長、地震学会会長も誕生しています。)
・日本学術会議会員、初の女性会員に当選。(1981年)
・エイポン女性大賞受賞(1981年)これによりアメリカで出版された『20世紀・女性科学者たち』の10名に選出された。
・『女性研究者の地位分科会』を設立。
・『公益受託・女性自然科学者研究支援基金』を設立。
上記を見て頂くと分かりますが、彼女は科学で社会貢献をする事が彼女の哲学でもあったわけです。さらには女性科学者を後押ししてくれる活動も多くある事が分かります。
猿橋勝子さんという人間
ウィーンで猿橋さんは核実験が人間に及ぼす影響についてスピーチを行いました。
英語でのスピーチは内容も見事で各国の代表に深い感銘を与えました。
スピーチには猿橋さんの熱いの思いが込められていました。
『広島、長崎、ビキニの被爆者達は私たちとは無縁の人ではなく私の父であり、母であり、兄弟であると考えなくてはいけません。決して他人事では無いのです。二度と繰り返してはならない悪夢であることを次の世界に語り継がなければいけないのである。』
そして、彼女は肺炎の為享年87歳で都内の病院にて息を引き取りました。信念を高く掲げ87年間戦い続けた生涯でした。
科学者である以上どんな仕事をしたかと言う業績が問われるのは当然です。しかし猿橋さんの生き様を見ていると科学者にこそ業績を超えた人間を愛し権力に媚びない人間性が大切だということがよく分かります。
彼女はこのような言葉も残しています。
『一生懸命勉強するとはじめはいくつものベールの向こうにあった複雑な自然現象が1枚づつベールを剥がし、絡み合っていた自然の仕組みが次第に解き明かされてくる。研究者としての何物にも変えがたい大きな喜びがここにある。』
彼女の好奇心の源がここにあるような気がします。