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『ピンインの父・周有光』生誕112周年をGoogleが祝福!!

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本日(2018年1月13日)のGoogleロゴが変わっていますね。

周有光さんという方です。

彼は、中国の言語学者です。ご存知の方も多いのではないでしょうか?

彼はなんと・・・拼音(ピンイン)の開発をした方です!

これから紹介をしますので是非ご覧下さい。

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周有光さんって誰?どんな人なの?

名前 周有光(しゅうゆうこう)
生年月日 1906年1月13日
2017年1月14日(111歳没)
職業 経済学者、言語学者
出身地 江蘇省常州

彼は拼音(ピンイン)の策定の普及に関わった『ピンインの父』と呼ばれた方です。

拼音(ピンイン)とは、発音を学ぶときに不可欠なものです。

いわゆるローマ字式の中国語の発音記号になります。※正確にはラテン語を使った発音記号。

これを聞くともしかしたら見覚えがある方もいらっしゃるかもしれません。

それは、大学の中国語の授業です。

授業を開始したら、中国語の文字の上にラテン語を見かけた方もいらっしゃるかもしれませんが、それがまさにピンインなのです。

拼音(ピンイン)の普及時には、教育現場やパスポートなどにも使われました。

拼音(ピンイン)の読み方は世界的にも共通しており、1982年には国際標準化機構も拼音(ピンイン)をISO7098として採用をしております。

イメージとしては上記の写真のようなものです。

中国語の漢字の上に日本語で言う『ふりがな』のようにローマ字のような文字(ラテン文字)の記載がございます。

これがまさに『拼音(ピンイン)』なのです。

そんなピンインを策定した『ピンインの父』周有光さんの経歴・生い立ちを紹介し、ピンインについても記載していきます。

ちなみに周有光さんは中国語・ラテン語・フランス語・日本語の四ヶ国語を扱えるそうです。

周有光さんの経歴と生い立ち

周有光さんは、江蘇省常州という場所で生まれました。

1923年に上海の聖ヨハネ大学に入学をします。

しかし、五・三◯事件の影響で光華大学が創立され、周有光さんも光華大学に移りました。

ちなみに五・三◯事件とは、中国や上海のデモに対して当時の警察が発砲をした事により負傷者・死者が多数出た事件です。

1927年の21歳の時に張允和さんと結婚をします。

写真の方がまさにその方ですね。

とても美しい方です。彼女は、2002年8月14日に亡くなられています。

1933年27歳時から日本と周有光さんの関わりが出てきます。

周有光さんは日本に留学をします。

日本では経済学を学びました。その学んだ場所が日本で知らない人はいない東京帝国大学(現在の東京大学)と京都帝国大学(現在の京都大学)です。

この大学の経歴だけで周有光さんの学力の凄さが分かります。

しかし、留学生活は3年で終わり帰国をします。

その後は光華大学にて経済学を教えたり、金融関係の職務にも就いていました。

当時は、日中戦争の真っ只中で、中が人民共和国が成立すると上海に戻り復旦大学、上海財経学院の教授を務めます。

そのころから文字改革に関する著作を発表します。

 

著作した作品が評価され、1954年48歳時に文字改革委員会に招かれます。

これを機に経済学はやめ、文字改革の専門家として活動をされることになります。

文字改革委員会では、識字別の向上を目的に拼音の考案が始まりました。

というのが当時の中国は人口の85%が漢字を読むことができなかったわけです。

現在においては、拼音(ピンイン)の存在で85%の数字が5%まで低下しています。

それだけ影響力がある事なのですね。

※識字率とは…国や地域で文字の読み書きができる人の割合を指します。

そして、1979年73歳時にワルシャワで行われた国際標準化機構にてピンインの国際標準化を提案し、1982年にISO7098として標準化されることになります。

また、1980年代にはブリタニカ百科事典、中国大百科全書では委員を務めます。

特にブリタニカ百科事典におちては中国語への翻訳に成功をします。

1988年に日本企業のシャープをきっかけに拼音の入力に関しても興味を持ちます

当時はパソコン操作も勉強をしました。

その翌年1989年に退職をし、その後は著作を出し続けます。

100歳になった頃にはブログも開始をするなど、まだまだ現役です。

そして、2017年1月に111歳の誕生日翌日に亡くなられます。

共産党を反対し続けた周有光

周有光は、中国の中でも上流家庭と呼ばれる裕福な環境で育ちました。

清朝の時代に生まれた彼でしたが、彼は長らく民主主義を支持してきた一人で政治的に注目を浴びていました。

1937年の日中戦争の最中、日本が中国に攻めてきた時に妻と子供を連れて中国の中部に移ります。

そこで、当時はまだ勢力として弱かった共産党指導者らと接触をするようになります。

日本が敗戦をし、彼は中国共産党と中国国民党に内戦を避けアメリカに渡ります。

彼は、アメリカのウォールストリートで銀行にも勤めたわけです。

1949年に共産党が内戦で勝利した事をきっかけに周有光は中国に戻ります、

その時、彼は新たな希望が生まれたと感じ、また母親がいたらからと発言を残しています。

1966年から毛沢東の文化大革命がありました。

その混乱を免れる事はできず、彼は2年間強制労働を強いられます。

その時60代にして初めて地ベタに寝た事を明かしていました。

60代から80代にかけての20年間のことを彼は、『無駄な時代』『毛沢東の良いところは全く見つからない』とも発言を残しています。

ただ、毛沢東の後継者、鄧小平には高く評価をしていました。

鄧小平が引退をしてから鄧小平の改革は達成することはないと批評する本を多々出版していました。

彼は、中国人が裕福になることは重要ではない。人間の進歩とは究極の民主主義へ向かうことだと語っています。

周有光さんの代表的な著書

周有光さんの代表的な著作を紹介します。

漢字改革概論(1961年)

こちらは、文字改革に関する内容をまとめた著書です。

北京大学にて行なった講義もまとめられています。

これは中国ピンインの礎となる書籍でもあります。

拼音化問題(1980年)

漢字和文化問題(1999年)

周有光語文論集(2002年)

周有光語言学論文集(2004年)

周有光文集(2013年・全15巻)

これまでが代表的な著作です。

しかし、周有光さんは、これらとは別に40以上の執筆を行っています。

では、周有光さんについて知って頂いたところで、彼の人生で一番の成果とも呼ばれる拼音(ピンイン)について詳しく記載します。

拼音(ピンイン)を更に詳しく

拼音(ピンイン)とはどういうものか簡単に最初の週有効さんの紹介時に記載しましたが、ここからは更に詳しく記載していきます。

拼音(ピンイン)は発音記号

中国語は日本と違い漢字のみです。

ふりがなやカタカナというものは全くありません。

音を可視化したものがこの発音記号と呼ばれるラテン語表記されたものなのです。

拼音(ピンイン)の読み方はラテン語ではない

拼音(ピンイン)の読み方として注意点ですが、ラテン語なのでラテン語と同じ読み方で大丈夫かと思いきや全く違います。

文字が例えば同じだとしてもあくまでも『発音記号』として使われています。

例えば・・・

xi ⇒ シ

qi ⇒ チ

上記のカタカナに近い読み方になります。

イメージがつきましたでしょうか。

単にラテン語のように読んでしまうと全く違う意味になります。

ピンインには声調がある

よくある有名な中国語で・・・

書き方(ピンイン) 意味 読み方
媽(mā) お母さん 高く
麻(má) 上がっていく
馬(mă) 低く抑える
罵(mà) 罵る 急に下げる

マーと呼びますが・・・mの後にあるaの上を見て頂けますでしょうか。

aの上にある記号が全て違います。これはどう発音をするのか記した記号にあります。

読み方を変えるだけで全く意味が違います。

なので、ピンインのような発音記号がある事で意味を間違える事なく相手に伝える事ができるんですね。

逆に言えばこの声調を表す記号がなければ正確な発音をする事ができません。

拼音(ピンイン)の発声の仕方が上記の動画で分かります。

時間が空いた時にオススメします。左下の女性が綺麗でした・・・。

拼音(ピンイン)の種類・一覧

全部で50種類あります。

詳細として、まずアルファベットa〜zの26種類、ピンインはvの代わりにüが入った26種類と、声調符号付きの24種類があってトータル50種類というわけです。

 

拼音(ピンイン)ができた背景

周有光さんは、世界各地の文字を研究し、様々な文字について発表をし続けました。

周有光さんが出した答えは・・・

『ラテン語が一番優れている』という事。

技術的観点と社会的観点の両方からも『伝わりやすさ』が最も良いという判断を下したわけなんですね。

ちなみに当時のソ連では『スラブ文字化』でラテン語を否定する動きがありました。

拼音(ピンイン)の研究をする際にソ連の研究者から『ラテン語の研究をやめてくれ!』としきりに反対がありました。

その後、ソ連政府の方が北京を訪れ、当時の副総理に対してロシア文字の採用を提案し、『文字の中国ソ連の連盟』が提唱されました。

中国側としては、中国は今後東南アジアとコミュニケーションをとっていく必要があると考えておりました。

しかし、東南アジアではロシア語を話せる人がほとんどいません。

なので、ラテン語を用いて宣伝であったり普及活動を行いたいという考えをソ連側に伝えたわけです。

それから長く3年の月日が経ち具体的に拼音(ピンイン)の開発を進めるべく『漢語拼音方案審査委員会』が設立しました。

設立されたらさらにローマ字の普及活動が実施されました。

その中には、1972年6月村野辰雄(三和銀行第五代頭取)という日本の方も周有光さんのもとに来られたわけです。

というのが、周有光さんが日本に来られた時、1920年代に彼はローマ字の普及活動を日本で行っていたんですね。

彼が日本から中国に帰国した後もその普及活動は継続して行われていたそうです。

『日本ローマ字会』という団体が結成されることにより。

その理由があり、彼の代表著者『漢字改革概論』が日本語訳されることになります。

1979年のことです。

パリで開かれる国際標準化組織の会議がありました。

そこで周有光は2つの論文を提出します。それが、『漢語拼音方案』の歴史的要素のものと、もう一つが技術的要素を説明したものです。

この講演で見事成功をしたわけです。

さらに参加者の中から周有光はこのようにも言わました。

「この会議は、あなたのような方が来てこそ成果がでるのです。過去にも中国語の文字に関する会議は数多く行われてきましたが、上手く行かなかった理由は、説明が不明確で、参加者がこの議論についての問題を正確に理解することができなかったからです」

そして、さらに多くの国で審議され、ついに1982年『漢語拼音方案』が国際標準として認められるわけです。

これまでの経緯を踏まえて周有光は拼音(ピンイン)に対して外交的な問題は小さいが文化的角度からすると大きい問題と述べました。

中国が世界から認められる為にはまずは中国の文字を海外の文字に変換できるような仕組みが必要だと考えたわけです。

拼音(ピンイン)があれば外国人がインターネット上で中国の出版物を探せるし、中国と外国の文化の架け橋となったと発言もしました。

周有光・生誕112周年がGoogleトップに表示されている国

『拼音(ピンイン)の父』周有光さんのまとめ

彼の経歴を見て感じた事があります。

彼は何歳になっても学習意欲が途絶える事がないようでした。

そんな彼だからこそ拼音(ピンイン)という世界基準の発音記号を策定する事ができたのだと思います。

中国人の人口は約13億4800万人です。(2018年1月13日時点)

この拼音(ピンイン)を作ったことは国家統一のきっかけとなったといっても過言ではございません。

彼が発明した拼音(ピンイン)があったおかげで中国という国が発達したと言えるでしょう。

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