今、人の感覚や価値観は大きな転換期を迎えています。自分が子供の時と今では世の中の価値観が全く変わってきてしまっている。それは一体何故か。
終身雇用が崩壊し、どんなに大きな企業有名な会社に就職しても将来的に安泰、一生が保障される、なんてことがなくなってしまったからか。
それとも物のない時代から物のある時代になったことでこの先何を持って豊とするのかわからなくなってしまったからか。
色々な理由が考えられると思いますが、戦後の高度成長期を生きてきた多くの日本人はある意味で共通の豊かさを目指して行ってきました。
いい学校に入り、いい会社に就職する、すると生活は安定し、いろいろと豊かなもの便利なものが手に入る。
当然、世間体も良く将来的にも安定し安心して生きていける。そんな共通の豊かさに憧れ誰もが疑問を持つことなくそういう豊かさを追い求めてきたのです。
それ自体が価値観となっていたのです。しかし、その時代も終わりを告げてしまいました。
有名な会社に就職しても一生が保証されることはない。ものが溢れたそうお金がなくても空腹に悩まされることも寒さに凍えることもなく、生きていける。もはやみんなに共通した、みんなが求める豊かさというものを描くことができなくなってしまったのです。
みんなが目指すべき理想の生活という一種の目標がなくなってしまった。つまり、1人1人が自分なりの豊かさ自分にとってのワクワク感というものを考える必要がある時代になったということなのです。
そんな時代では会社や社会に与えられる人生ではなく、自分の人生を生きる必要があります。
会社や社会に与えられて生きる人生は楽です。目標すら勝手に決めてくれ、自分の人生はその目標を達成するために頑張ればいいだけなのです。
一方現代はその目標を自分自身で設定する必要があります。目標を決めるという行為自体も大変なのに、例えそれを決めたとしてもその目標が正解かどうかなんて誰にも分からではありません。。
だからこそ最初に決めた目標が本当に正しい目標なのかどうか常に心の中でもやもやと悩んでしまうことになります。
「なんとなく大学に入ってなんとなくで就職したけど、これが本当に自分のやりたかったことだろうか。食うには困らない給料があるけれどそれだけで本当に幸せと言えるだろうか。これまでしてきた人生の選択は本当に正しかったのだろうか。」
そんな考えが蔓延しているのです。
そんな中、新しい切り口の考え方というのも広まりつつあります。
それは西洋と東洋の知の融合という切り口です。実はこれまで私たちが生きてきた時代・社会というのは原則として近代西洋思想をベースとして作られてきました。
私たちのライフスタイルはもちろん、働き方も会社のあり方も法律・政治・経済の様式まであらゆるものが近代西洋思想、近代西洋文明に則って作られてきたのです。
例えば、お客さんは商品を買う時に少しでも安い方を選びますよ。企業は少しでも安く効率よく生産しようと努力します。
そのために効率よく生産することに長けた人材を採用しようとしません。これらは全て私たちにとって当たり前のことばかりです。
このような当たり前の考え方ですら近代西洋思想の影響を受けた考え方なのです。産業革命以後の近代西洋の考え方、これが私たちにとっての当たり前の根源なのです。
しかし、大きな転換期を迎えている今、近代西洋思想をベースとして考え方があちらこちらで破綻し始めているのです。これまで全地球規模で世界をリードしてきた近代西洋思想が揺らぎ始めた今、世界中で見直されているのが東洋思想なのです。
物質的な充足よりも心の充足を求める人が増え、その延長でマインドフルネスであったり、禅仏教が世界的に流行しているという話を聞いたことがある人も多いでしょう。
所有というよりもシェアという意識が広がり、シェアビジネスなるものが増えているのも東洋思想的アプローチの一つの形と言えます。
もちろん近代西洋文明の全てが悪いというわけでなく、あくまでも西洋と東洋の知の融合が求められ、そうした動きが世界中で起こっているということなのです。だからこそ今、世界のトップリーダーたちは東洋思想を学び始めているのです。
本日紹介する本は"なぜ今世界のビジネスリーダーは東洋思想を学ぶのか"です。著者の田口佳史さんは25歳の時、タイで重症を負い、生死の狭間で老師と出会ったそうです。
以後、中国古典思想研究に従事し、東洋思想をベースとした仕事論、生き方論の第一任者として活躍されている方です。
本書で扱う東洋思想とは、儒教・仏教・道教・禅仏教・神道の五つの思想をさせています。
客観的なデータは正しいのか
まず最初に東洋思想の根本的な部分について解説します。全ての東洋思想に共通することです。それは
- 自分の心の中に関心を向けるということ。
- 東洋思想は自己の内なる仏や神に気づくこと
- 自己の仏性・真的に目覚めること
これを重視しているのです。
それだけ精神性にとんでいるということでもあります。一方で西洋思想ではどちらかといえば外側に関心の中心が置かれています。
誰でも理解できることだったり、普遍性を重視しているということです。
西洋は外側にある対象に意識が向かうのに対し、東洋は内側にある対象に意識が向かっている。このようにまさに正反対だからこそ東洋思想と近代西洋思想は相補い合う関係であり、西洋に傾きすぎている今、西洋と東洋の知の融合が求められているのです。
実際シリコンバレーを始め、多くの世界のトップリーダーたち日本の企業家、大企業の中でも特に感度の良いリーダー達はこぞって東洋思想を学び始めているのです。
何故、彼ら彼女らはそこまでして東洋思想を学ぶんでしょうか。
もちろん単なる教養として学んでいるのではありません。。時代を読み解く切り口として、あるいは新しいビジネス発想を得るための思考の源泉として東洋思想を学び始めているのです。
世の中のトレンドや価値観はどこに向かっているのか。そのヒントを東洋思想の中に求めているのです。
もしあなたが「今の時代についていけないよ」とか「価値観がだんだん合わなくなってきた」なというふうに考えているのなら、まずは東洋思想を知るところ、そこから始める必要があるのです。
なぜなら、思想や文明っていうのが、価値観や考え方を作り出すからなのです。例えば、近代西洋思想には客観的なデータは正しいという概念があります。
今の私たちが当たり前のように信じている概念ですが、これは古今東西ずっと信じられてきたわけではありません。
事実の世の中では客観的な事実よりも、神の思し召しの方がはるかに高い価値があり、そうした価値基準の中で人々は暮らしていたのです。
例えばあなたが会社を経営しているとして、2人の人が「採用して欲しい」とやってきたとします。私たちの考え方としてはどちらがより優秀な人材かを客観的に見極めようとするでしょう。
しかし、中世のヨーロッパ社会ではどちらがより神に祝福されているかで考えるわけです。私たちにしてみれば「なんだその価値基準」という風に理解不能に感じるところなのですが、それこそが価値観の違いであり今の私たちが時代についていけなくなっている正体でもあるのです。
中世を生きた人も中世から近代へと文明の転換が起こり、客観的なデータは正しいという概念が広がることによって、今までの神が全てだという価値観が通用しなくなり、「客観性なんて必要ないだろう」という考え方は淘汰されていってしまったのです。
つまり、それぞれの時代がどんな文明に基づいているのかによってどんな価値観が形成され、どんな思考するのかが変わっていてしまうということなのです。
「客観的な事実より神の教えのほうが正しい」という考え方をおかしいと思うのは私たちが今客観的な事実が正しいという考えが当たり前の文明に生きているからなのです。
私たちはもちろん今の時代の価値観が当たり前であり、正解だと感じているのですが、時代が変われば価値観と言うのは簡単に変わってしまうのです。
もしかしたら次の時代では客観的な事実より個人の体験の方が正しいという価値観が広まるかもしれません。
そうなると、客観的な事実を信仰していたことなんて信じられないよという風になってしまうかもしれません。
これから先の時代に対応するためにその価値観の源泉である思想文明をしっかりと学んでおきましょう。
神の言う通りに生きる人生が古いと感じてしまうように、客観的なデータ通りに生きる人生なんて古いという風に言われる時代が来るかもしれません。
機械は人より優れているのか
近年のAIの進歩には目を見張るものがあります。様々な分野でAIが取り入れられるようになり、人間がやるよりも確実により生産性の高い仕事をこなしていくのです。
「自分の仕事はAIに奪われてしまうのではないか」と不安に思っている人も多いでしょう。
産業革命の時もそうでした。機械によって多くの人の仕事が奪われてきました。何故人が機械に仕事を奪われるのかと言うと1時間にどれだけ多くの商品を作れるのかという指標で考えるなら機械の方が人間より優れているからなのです。
つまり、機械は人より優れているのかという問いに対しては何を指標にするかでその答えが変わるというのが答えになります。
例えば、中世ヨーロッパ社会においてはキリスト教教会派がすべての価値を決めつけ支配していました。
中世ヨーロッパではキリスト教教会派の人たちが課題な権力を持つようになり、キリスト教教会に所属しているかどうかで天国に行けるのかいけないのかを有効的かつ独断的に区分される社会が成り立っていたのです。
彼らの権力は神と結びついていたんでとにかく絶対的だったのです。ある時、突然家のドアがノックされて「お前を連れて行くぞ、お前を処刑する」と言われても「それが神のお告げである、神がお前を生贄にしろと告げているんだ」と言われたら全てがまかり通ってしまう、そんな社会だったのです。
当然言われた本にも処刑された人の家族も遺族たちも全く納得はいきません。この不納得の正体が何なのか。それを考えた結果が客観性の無さだったのです。
中世の世の中ではキリスト教教会の意向が一方的にまかり通っていたために客観性が決定的に抜け落ちていたからなのです。
その反動によって産業革命とともに訪れたのが客観性が求められる時代です。神の教えの代わりに次の時代に求められたものが客観性だったのです。
客観性とは言い換えるなら科学や数字のことであり、科学や数字が世の中を席巻する時代が訪れたわけです。
今の人々が重視しているのが「それって科学的に正しいの?」と客観的な数字を持って示せるのかという考え方です。
神に祝福された人は正しい、そうでない人は価値がない、という曖昧且つ客観性を持たない価値基準はもはや古いものとなり、同じ1時間で10個の商品を作れる人は5個の商品しか作れない人よりも優れた存在だという客観性を持った価値基準が広がっていたのです。
同じ時間で10個の商品を作れる人は、5個の人よりも優れているというのは個人の生産性の話ですが、組織であれ工場であれ全ての発想は同じです。
全く同じ商品を1日当たり多く作れる組織だったり、多く作れる工場っていうのは優秀であり、そうでない組織ってのは淘汰されてしまう。
コスト管理の面で見ても同じ機能の商品なら1円でも安く作ることができればそれは優秀だとみなされ消費者はそちらを選ぶ。
これこそ私たちの社会に根付いているごく当たり前の考え方といえます。同じ機能なら1円でも安い方が価値が高いと思うのも1時間当たりの時給が1円でも高い方がいいと思うのもあなたがこの価値観、この考え方の中で行っているからなのです。
資本主義は資本宗教であるという人もいます。
近代西洋文明に基づく場合によれば、1時間に1個の商品を作る人よりも1時間に10個の商品を作る人の方が価値が高い。それは生産性や効率、客観的な数字が進行される世の中だから成り立つものであり、絶対的なものではありません。
近代西洋文明に基づく考え方によれば、人は機械やAIに劣っていると言えるかもしれませんが、根本となる思想が変われば答えも変わってくるのです。
思想を学ぶということはこれまでのあなたの考え方を一度捨てる必要があります。もちろん最終的に元々の考えに戻っても良いのです。
ただ新しい考え方を完全に拒否してしまわないようにすること、これが何よりも大切なのです。
新しい考え方と既存の自分が持っている考え方のいいところを取り入れる。そうすることによって今まで見えてこなかったような価値観が見えてくるようになるかもしれません。
これからの価値観とは
これから先価値観はどのように変化していのんでしょうか。また、今新しく広まりつつある価値観にはどのようなものがあるんでしょうか。
皆さんの体感されていることかもしれませんが、成果主義的な価値観というのはだんだんと淘汰されていっています。
そして、新しく台頭してきている価値観が楽しさ、やりがい、意欲といったより人間的な部分へのアプローチなのです。なぜなら、人間的、生命的な部分にアプローチしなければ継続的なモチベーションアップにはならないという考え方が主流になってきているからです。
この事に関しては"モチベーション3.0"という本でも様々な研究が紹介されていました。自分の内側からやりたいと思う内発的動機付けと、外部からの現金報酬などの何かもらえるからやりたいと思う外発的動機付けでは継続的にやる気が維持されるのは内発的動機付けの方だと分かっているのです。
つまり、自分が楽しいと思えることでないとやり続ける事はできません。
もちろんお金が悪というわけでも大金持ちになるという野望が悪いわけでもありませんし、みんな大金持ちになりたくないと言っているわけではありません。
しかし、今の時代を生きる人は前時代的な金儲け主義に縛られるのではなく、今楽しいこと、ワクワクすること、これを最重要な活動位置づけているのです。
この傾向は特に欧米の若者に見られますが、日本の多くの若者だって同じです。不況の時代を生きてきた日本の若者は確かに安定的に生きていくことを思考しています。
しかし、その根底にあるのは金持ちになりたいとか、偉くなりたいという思いではありません。
安心して生活していけるという最低限の欲求を満たせるのであれば、やはり彼らも楽しいこと、自分なりの充実感を得られることをとても大事にしているのです。
これは産業革命以降、世界中のビジネスが急成長してきた時代に信じられていた近代西洋思想とはちょっと異質な違った考え方なのです。
例えば現代では、安定した高給取りである医者と給料は安くても自由に好きなプログラミングを仕事にできるフリーランスエンジニア、どっちを選ぶかと言われた時にフリーランスエンジニアを選ぶ人だっているのです。
これは近代西洋思想的な価値観とは外れています。
シリコンバレーのトップ達はもちろん日本の多くの若者、感度のいい日本のビジネスパーソンが時代とともに価値観の変容、パラダイムシフトが起こっていることを何となく感じているのです。
ところがその正体をアカデミックに紐解き理解することができない、そんな困惑が彼らの中に広がっているのです。
そこで東洋思想を学びだしたということなのです。機会的数学論、つまり数学や科学をベースとした学びではなく、自分に意識を向ける東洋思想。これが彼らにとって足りなかったものを満たしてくれたのです。
近代西洋思想から西洋と東洋の知の融合へ。近代西洋思想だけでは説明がつかず納得できない部分がそこかしこで起こってきたために東洋思想との融合を求め始めているという状況なのです。
東洋思想の中でもとりわけ老師哲学が注目を浴びています。老師哲学とは総体的に物事を評価し、作為的・人為的に行動することでかえって自己を苦しくしてしまっているものが世の中だとして、そんな世俗社会にあって無為自然の世界に心を遊ばせ、真の人間性を監督しながら生きていくことを良しとする哲学です。
物事に拘泥することなく、無私無欲の自由と言うものの大切さを説いているのが老師哲学の根本であり、老師の説く道(タオ)という世界観なのです。
老師が苦しさを増大させてしまうものとして説いているのが、まさに今まで私たちが生きてきた成果主義の社会であり、その中で生きていくための考え方を教えてくれているのです。
もちろん簡単に理解し体得できるものではありませんが、この老師の説く世界観こそが21世紀の人類の化身とも言われているのです。
例えば、老師の言葉には
"世間の価値観にとらわれることなく、世間的な成功に執着することなく自分の好きなことだけを追求しなさい。
天下を背負って立とうとか、会社を背負って立とうとか考えなくていい。自分らしく地道な暮らしをしていたら自分の好きな分野で知らないうちに世の中の役に立っているもの。自分の好きなことだけを追求しなさい。そうすれば楽しく生きていける。"
という意味合いの言葉が沢山あるのです。
とにかく自分なりの楽しさを大切にして、自らの命を喜ばす。そんな生き方を説くのが老師哲学なのです。
いかにして世の中に貢献し、ユーザーのニーズに応え、ビジネス的な成功を収めるかというマインドを叩き込まれてきた人にとっては価値観や仕事観を180度ひっくり返されるような教えなのです。
一方、今まで成果主義の中で生きてきたのに「自分の好きなことをしなさい」とか「自分らしく地道にやっていれば知らないうちに役に立っているものだよ」何ていう風に言われても途方に暮れてしまう人も多いでしょう。
しかし、それこそがパラダイムシフト。つまり、価値観が変化する瞬間なのです。
そして、今世の中の風潮がこうした価値観にシフトしていっていることは間違いではありません。
もちろん世の中の全てがこうした東洋的な老師的な価値観により変わっているという意味ではありません。
あくまでも近代西洋思想重視、偏重していたそんな世の中から西洋と東洋の知の融合が徐々に進んでいるということをなのです。
ただし、この変化を見過ごすわけにはいきません。こうした変化を受け入れられないということは、すなわち環境に適応できないということであり、環境に適応できないということは生き残れないということでもあるからです。
だからこそ今、欧米の企業家や日本の大企業のトップたちはこぞって東洋思想を学び始めているのです。
人生はあなた自身のものなのです。成果主義を採用するのも、西洋思想を採用するのもその両方から好きなところだけ取り入れるのも全てはあなた次第なのです。
ただし、知らないままにしておくのはあまりにもったいない。是非世の中の偉人が作り上げてきた知の結晶をひとかけらでもその目に焼き付けてから自分なりの考え方、生き方を探してみてください。